1929-2016 日本(東京) 美術評論家
東京都千代田区出身。終戦後、鎌倉に住まう文学者や芸術家との交流を通じて美術に関心を持つようになる。
その間に知り合った丸木位里、赤松俊子夫妻の《原爆の図》を抱え、1950年から1955年にかけて全国各地で同作の展覧会と講演を行った。詳細な調査をふまえて書かれた靉光論や、最初の瀧口修造論の一つである「瀧口修造覚え書き」が高く評価され、批評家として本格的に活動を始める。1960年代には、ハイレッド・センターらパフォーマンスの活動を積極的に紹介した。