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「日本写真の1968」

こんにちは。今年は、1968年から50年の年です。

新入荷の「日本写真の1968」をご紹介します。2013年に写真美術館で開催された展覧会の図録です。

写真というものがどういう状況の中で成り立っているのか、それを「1968年」という切り口から解き明かすことができたら、と企画者の金子隆一さんは書いています。

政治運動も芸術も思想の多様化も、絡み合い大きな熱狂が巻き起こる季節。日本写真という枠組みにおいても1968年は変革、転換の年でした。

ニコンサロンが銀座にオープンし、開催された「写真100年展」や、『日本写真史 1840-1945』の刊行。

中平卓馬、 多木浩二 、高梨豊、岡田隆彦 (詩人)らによる写真雑誌 『 プロヴォーク 思想のための挑発的資料』 創刊( 2 号より森山大道が参加)。

『カメラ毎日』1968年6月号では「シンポジウム:現代の写真-日常の情景」と題された特集の中で、大辻清司が「コンポラ写真」の動向を紹介。

など、見過ごせない事件が起こっています。近代的な写真表現の価値観を突き崩す、問題提起の数々がそこからはじまりました。

「写真」とは何か。そう問うたとき、ただ、「写真」としか名付けようのない写真…

実際に学生や農民、労働者の側に入って撮られた叛乱、闘争のただなかの写真も、写真でしかなしえない『異議申し立て』の力を明らかにしますが、

その写真について、表現そのものについて、自分自身の歴史から問いに付す、内省的で痛みを伴う戦いも、真に政治的な問いに近づきます。

図録にある小原真史さんの解説に詳しいのですが、1968年の「写真100年展」は東松照明をはじめとした写真家たちが中心となって60年代中ごろから準備が進められていました。

『プロヴォーク』を牽引した評論家の多木浩二さんと中平卓馬さんが出会ったのもその準備の中でです。

中平さんは、詩人になるか写真家になるか迷っていた写真雑誌の編集者でした。東松さんに結婚祝いでアサヒペンタックス一式をもらって翌年出版社を退社したそうです。

「写真100年展」の準備過程で約50万枚もの写真を見たことが、写真について書くきっかけになり、「写真を見ることと撮ることとは同じロジックだ」と、森山大道との対談でも語っています。

「写真100年展」では写真が「記録」であること、その特性自体への反省を欠いたがゆえに「暗い歴史への共犯者」に「われわれ写真家」が陥ったという、その状況のなかでは非常にラディカルな主張を打ち出したものでした。例えば明治中期の芸術写真への批評がありました。近代写真という「見る制度」への根源的な問いかけ、その異議申し立てが『プロヴォーク』にもつながって行き(約一年半で解散してしまったものの)、言葉と、写真という記号のぶつかり合いのうちに実践されます。

「写真はあたらしい記号をひとつ、環境にむかってつくりだすのであり、一方からみればそれは投企であり、それはやはり現実を変えようとする行為である。したがってそれはあたらしい意味によって意味論的な環境の解体をはかることであるし、状況に対する危険な賭を含んでいる。」(多木浩二・『眼と眼ならざるもの』)

写真は言葉の裏側にあり、それ故に言葉や観念の世界を触発し、新しい言葉、新しい思想をつくりだしてしまう、とプロヴォーク一号のマニフェストにはあります。

それは撮ることでどんな記号が生まれてしまうかわからない、自分自身がなにをつくってしまうかわからない、という告白でもあると思います。

危険な賭が含まれているという実感は写真家たちの胸を高鳴らせたものでしょう。

そして2013年に東京都写真美術館で行われたこの「日本写真の1968」。

プロローグの東松照明の「奄美」から始まってゆきます。青い海の水、予感に満ちています。

日本写真の1968/東京都写真美術館編

日本写真の1968

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