蕗谷虹児は15歳から3年間、日本画家・尾竹竹坡に弟子入りし、絵を学びました。その後、映画館の看板描きなどをして生活をしていましたが、やがて家庭の事情で樺太へ渡ります。
そこで2年半、旅絵師として暮らし、22歳の頃(1920)文展を目指して上京します。しかし東京へ向かう道すがら財布を掏られ、あえなく文展を断念。
無一文であった彼は、日米図案社でポスター描きの仕事をはじめました。
やがて知人の仲立ちで、竹久夢二に絵を見てもらう機会を得、夢二から「少女画報」の主筆・水谷まさるを紹介されます。
しかし、 女性の肢体の描き方を春画から学んでいたという虹児の絵は、可愛らしさや華やかさがなく、はじめは掲載を見送られてしまいます。
そこで彼は発奮し、毎日のように女学校に通っては女学生を観察し続け、ときにはストーカーに間違えられながらも“少女”というものを理解しようと努めました。そんな異常なまでの研究の末、華やかな少女像を描くことに成功した虹児は、まもなく抒情画家としてデビューします。
虹児は、編集者から求められた少女像に合わせる努力をしていたため、デビュー直後は当時絶大な支持を得ていた夢二に影響を強く感じる女性を中心に描いています。しかし、夢二のように女性の肢体を追及していくのではなく、装飾、デザインに力を入れていたと言えるでしょう。
特に、彼の描くペン画には、和と洋の美しさす見事に織り交ぜた傑作が多く見られます。ビアズリーの影響が窺えるアール・ヌーヴォー調の曲線的装飾を得意とした虹児は、着物や家具にそれを惜しみなく施し、優雅な空間を創りだしています♡